日本政府は、特別な記念碑や芸術作品を「国宝」として指定するという、よく知られた制度を監督している。あまり知られていないのは、日本が厳選した伝統芸術の体現者を「人間国宝」として指定しているためだ。そうすることにより、何世紀も前から存在する幅広い芸術品や工芸品の活力と伝承を確保しているが、現代においてその体現者が減少してしまった。そのため、このように指定された芸術家は、貴重な芸術的遺産を体現する文化遺産の生きた表明である、と理解されている。この制度が海外に展開されていれば、アルフォンソ 安里座 がその指定を受ける理想的な候補者になることは間違いないだろう。それは、安里座が彼の絵画を通じて、まさしく日本の伝統である日本画の体現を保持し、伝承し、育成すると同時に、それを新しくて並外れたものに変容させているからだ。その結果が、この展覧会「古典」の3つのユニークな絵画として展示されている。
日本画は、日本の伝統的な形式、素材、パレット、主題に基づいた絵画の様式だ。それは、前近代からの多様な絵画流派のアプローチを融合し、それらを現代の展示空間と鑑賞条件に適用させている。その起源は1880年代にさかのぼり、アメリカのアーネスト・フェノロサ(1853-1908)や岡倉覚三(1862-1913)などの東京の美術評論家や知識人が、日本の西洋化と由緒ある日本の伝統の潜在的な終焉について深刻な懸念を見せた。この2人の人物は、1889年に東京藝術大学の開校に貢献した。この大学は日本の最初の西洋式芸術学校で、油絵を教えず、代わりに日本画を教える学校であった(油絵のカリキュラムは1896年に追加)。一方、京都では、竹内 栖鳳(1864-1942)などの芸術家の間で、日本の伝統的な絵画学校を保持しながら近代化するための並行運動が行われていた。
日本画運動は、創設者の想像を超えて成功を収めてきた。今日では、日本画の厳格な訓練カリキュラムを提供する著名な美術学校が数多くあり、多数の卒業生を輩出している。毎年数十の展示会が開催され、多くの観客が訪れる。日本の最も偉大な現代画家たちの多くは「日本画家」であり、彼らの作品は美術館や個人コレクションだけでなく、仏教寺院や皇居などの伝統的な施設にも飾られている。
アルフォンソ 安里座は、日本に留学するために文部省の奨学金を取得し、東京の多摩美術大学で修士号を取得した。そこで安里座は、戦後の日本画でとりわけ巨匠の一人である加山又造(1927-2004)から教わった。
日本画を極めるのは、非常に難しい。多くの絵画の伝統はそれ自体に織り込まれていて、モノクロームとポリクロームの絵画の伝統の観点から、最も良く説明される。モノクローム絵画は水性インクで作られており、無数の種類の筆致やインク細工を適用する芸術家の能力に基づいている。一見シンプルに見えるが、水彩画を極めた芸術家は、ストローク、ウォッシュ、レイヤー、スプラッシュ、ステインを使用して、想像を超える範囲の色、テクスチャ、ムード、雰囲気の効果を魔法のように想起させることができる。ポリクローム絵画は、伝統的に、アズライトブルー(群青)、マラカイトグリーン(緑青)、シェルホワイト(胡粉)などの粉砕された鉱物顔料と動物の接着剤(膠)で構成される。ここでも、顔料をさまざまな顆粒サイズに粉砕することによって顔料の強度と色を調整したり、白い顔料の下層と組み合わせて柔らかくしたりするアーティストの能力は、幅広い芸術的効果を生み出すことができる。日本画の芸術家は、金や銀の葉(金箔や銀箔)など、キャンバスに素晴らしい金属のオーラを加える他の素材を利用することもできる。水墨画、植物染料、鉱物顔料、装飾箔の組み合わせにより、日本画はその表面全体に無限の視覚的上質さを提供することができる。
絵画の型も日本画の重要な要素である。特に、6つセットの屏風だ。このような型は、日本の視覚文化の伝統的な要素だ。各屏風の紙の蝶番のために、木琴のように折りたたむことができるよう、古代中国の屏風から進化したのだ。簡単に折りたたんだり、輸送したり、保管したりできる。通常は、一時的に特定の場面で屏風を展示することから、この仕組みが重要であった。例えば、式典や社交行事の短い期間に持ち出され、その後片付けられていた。展示されるたびに、建築内部に小部屋空間を作り出し、屏風の塗装面は、これらの小部屋空間に意味と雰囲気を生き生きと描き出した。そして、日本の歴史の大部分においては、床に座る文化であったため、屏風を見る人々は、彼らを囲む両側視野の屏風に没頭した。屏風が持ち出されるたびに、それは空間を変え、観客を別の世界へと連れて行った。
安里座は、日本画の研究を通じて、日本画の素材、形式、伝統的なアプローチを確実に習得した。しかし、それだけに留まらず、彼はこれらの構成要素を新しい方法で使い、新しい環境に適応させることによって、さらに日本画を進化させた。日本国外では、日本画のすべての画材が容易に手に入るわけではなく、アンデス地域で日本画の伝統を継続したいと考えている芸術家たちは、豊かな才覚で適応しなくてはならない。 2019年に、安里座のスタジオを訪れたとき、彼の進行中の作品だけでなく、彼の驚くべき鉱物顔料のライブラリー、そして彼が時々実験的にそれらを粉砕して作るために使用していた、いくつかの工具を目の当たりにしたとき、私は驚きと喜びを感じた。それは、まさにルネッサンスの画家の実験室のようです。
「古典」展の3枚の絵画は、日本画の伝統のさまざまな側面を示しているが、安里座がこの伝統に新たな一章をもたらす様々な方法も紹介している。「世界の中心」は、屏風の力の驚くべき解釈を見せている。ここではアマゾンジャングルの滝を描いており、全体に水をレンダリングする(3次元のオブジェクトを2次元にする)ことで卓越した効果を実現している。安里座が作品を制作しているときに聞いていたという伝統的な太鼓の力強いリズムは、絵画の隅々に染み込んでいる。水晶を含む顔料は、海の泡と波の頂上を伝えるだけでなく、表面に独特の質感、つまり液体を表現する鉱物を付け加えている。前近代の日本においてそうであったように、この屏風の前に膝をついて、視線がこの荒れ狂う海の真ん中にあることを想像できるだろうか?
一方、「銀の糸、生命の糸、ラ・チョレーラ」では、日本画のユニークな具体性と装飾効果が基礎となっている。その中心にあるのは、森中にあるボゴタ近くの滝、ラ・チョレラだ。銀箔(銀白)の土台に描かれ、銀葉のきらめく屈折光が、まるで内なる光のように神秘的な風景を彩る。ここでは、銀色の土台にも意味論的な意味がある。安里座にとってエルドラド伝説の真の宝物を構成するもの、つまり大陸の天然資源、特にエルドラドの水を表現するために、それ(銀色の土台)を使用していると安里座は述べている。川につながって土地全体に広がる銀の糸にこの滝を例えることができ、これは地球の循環システムを構成している。この絵は、エルドラドが特定の場所ではなく、常に私たちの周りにあったことを示唆している。
「解放者の道」も、その現場からインスピレーションを得ているが、その方法は異なる。ここでは、アンデスのそびえ立つ風景が赤い空を背景に描かれている。これは、独立戦争中にシモンボリバルが、この道路に沿って山を越えたときに流された血を象徴している。ここでも、日本画パレットに対する安里座のユニークなアプローチに沿って、赤い顔料の物質性には意味がある。この顔料はコチニールレッドからできており、伝統的にラテンアメリカのさまざまな地域で昆虫から描かれ、その鮮やかな色でヨーロッパから高く評価されてきた。それを再現しようとすると、どういうわけか合成染料のプルシアン(ベルリン)ブルーが発明され、それから日本に輸出された。 19世紀、葛飾北斎などの日本の芸術家は、プルシアンブルーを利用して、大波などの驚異的な効果を備えた新しい風景画を描いた。したがって、「解放者の道」でコチニールレッドを使用することで、安里座はこの不思議な色の、一周して元に戻る旅をもたらしている。
展覧会のタイトル「古典」は「クラシック」と訳され、日本画の安里座が高く評価している日本伝統への敬意である、と私は理解している。日本画は、単に「日本の絵画」を意味するが、安里座の実践を「世界画」と呼びたくなる。私たちはしばしば文化的、芸術的伝統を国の伝統として話すが、彼は、どんな芸術的伝統も、ひとつの国または文化の範囲内に限定することはできないということの生きた手本だ。彼の作品を通して、日本画は新たな章へと進化し続け、新しいインスピレーションを得て、運動の創設者が想像もしなかった新しい観客を見つけるだろう。